「わかっている人」ほど説明を飛ばしてしまう――知識の呪いと勉強のつまずき

勉強を教えていると、よく起きることがあります。

教える側は、きちんと説明したつもりでいる。

ところが、聞いている生徒の顔を見ると、どこか腑に落ちていない。

「ここまでは大丈夫?」と聞くと、「はい」と答える。

しかし、いざ自分で問題を解こうとすると手が止まる。

こういう場面は、勉強ではとてもよくあります。

その原因の一つに、「知識の呪い」と呼ばれる現象があります。

知識の呪いとは何か

知識の呪いとは、簡単に言えば、自分が知っていることを、知らない人の立場から考えにくくなる現象です。

一度わかってしまうと、「わからなかった頃の感覚」に戻るのは意外に難しいものです。

たとえば、数学が得意な人は、方程式を見たときに、どこを移項すればよいか、どこで符号を変えればよいか、自然に判断できます。

だから説明するときにも、つい、こう言ってしまいます。

「ここを移項して、整理すればいいよ」

しかし、苦手な生徒の側では、そこでいくつもの疑問が同時に起きています。

なぜ移項するのか。

どの項を動かすのか。

なぜ符号が変わるのか。

そもそも「整理する」とは、何をどうすることなのか。

教える側にとっては一言で済むことでも、学ぶ側にとっては、いくつもの小さな段差が重なっている場合があります。

この段差が見えなくなること。これが、勉強における知識の呪いです。

「前にやったよね」が通じないこともある

勉強では、「前にやったよね」という言葉がよく使われます。

もちろん、本当に前に習っていることは多いです。

しかし、前に習ったことと、いま使えることは同じではありません。

授業で一度聞いた。

ノートに書いた。

そのときは何となくわかった。

けれど、あとで自分一人で使えるほどには定着していない。

これは珍しいことではありません。

英語でいえば、「三単現の s をつける」という説明があります。

先生や得意な生徒にとっては、これは短い一言です。

しかし、英語が苦手な生徒にとっては、その中にいくつもの前提が入っています。

主語が三人称かどうか。

単数かどうか。

現在の文かどうか。

一般動詞なのか be 動詞なのか。

疑問文や否定文ではどうなるのか。

つまり、「三単現の s」という言葉は、わかっている人にとっては便利な合図ですが、まだ整理できていない生徒にとっては、かえって大きなかたまりに見えることがあります。

このとき、「前にやったよね」で済ませてしまうと、生徒はますます聞きにくくなります。

生徒は、何がわからないのかを言えないことがある

教える側は、よく「質問ある?」と聞きます。

これは大切な声かけです。

しかし、本当にわからないときほど、生徒は質問を作れないことがあります。

質問できるということは、ある程度、自分のつまずきが見えているということです。

「ここまではわかった。でも、この部分がわからない」と言える状態なら、まだよいのです。

問題は、全体がぼんやりしているときです。

どこがわからないのかもわからない。

何から聞けばいいのかもわからない。

こんなことを聞いたら怒られるのではないかと思う。

自分だけがわかっていない気がして、黙ってしまう。

こういう状態の生徒に、「質問ある?」と聞いても、なかなか質問は出てきません。

だから、教える側には、質問を待つだけでなく、生徒がどこで止まりやすいかを先に見る力が必要になります。

わかりやすい説明とは、簡単な言葉だけではない

「わかりやすく説明する」というと、難しい言葉を使わないことだと思われがちです。

もちろん、それも大切です。

しかし、それだけでは足りません。

本当に大切なのは、相手が理解できる順番に並べることです。

たとえば、比例を説明するとします。

いきなり「比例とは、一方が二倍、三倍になると、もう一方も二倍、三倍になる関係です」と言われると、定義としては正しくても、ピンとこない生徒もいます。

しかし、先にこう言うとどうでしょう。

「ジュース1本が120円なら、2本で240円、3本で360円になるよね。個数が増えると、代金も同じ割合で増えていく。こういう関係を比例というんだよ。」

こちらのほうが入りやすい生徒は多いはずです。

まず生活の中で見たことのある形を出す。

そのあとに、言葉や定義を置く。

この順番にするだけで、同じ内容でもかなり伝わり方が変わります。

難しい内容を薄める必要はありません。

必要なのは、段差を小さくすることです。

勉強が苦手な子は、頭が悪いのではなく、段差で止まっていることがある

勉強が苦手な生徒を見ると、周囲はつい「理解力がない」「集中力がない」「やる気がない」と考えてしまうことがあります。

しかし、実際には、かなり手前の小さな段差で止まっていることがあります。

英語の長文が読めない原因が、長文読解力ではなく、主語と動詞を見つけるところにある場合があります。

数学の文章題ができない原因が、文章題そのものではなく、単位や割合の感覚にある場合があります。

理科や社会が覚えられない原因が、暗記力ではなく、用語どうしの関係が見えていないことにある場合もあります。

表面だけを見ると、「この問題ができない」と見えます。

しかし、よく見ると、その前にある小さな前提が抜けている。

そこを飛ばしたまま説明を重ねても、生徒はなかなか進めません。

知識の呪いが怖いのは、教える側がその段差を見落としてしまうところです。

教える側に必要なのは、知識だけではない

もちろん、教えるためには知識が必要です。

しかし、知識があるだけでは、よい説明にはなりません。

大切なのは、その知識を、相手が歩ける道に組み直すことです。

教える側の頭の中では、内容はすでに整理されています。

けれど、生徒の頭の中では、まだ材料がばらばらに置かれています。

その状態の生徒に、完成した説明をそのまま渡しても、うまく受け取れないことがあります。

だから、教える側はときどき、自分の知識を疑う必要があります。

これは本当に、この子にとって当たり前なのか。

この言葉は、この子の中で意味を持っているのか。

この説明は、途中の階段を飛ばしていないか。

こう考えることが、勉強を教えるうえでとても大切です。

城東進学会で大切にしていること

城東進学会では、勉強を教えるときに、ただ解き方を説明するだけでなく、生徒がどこで止まっているのかを見ることを大切にしています。

同じ問題で間違えていても、つまずいている場所は一人ひとり違います。

計算の手順で止まっているのか。

言葉の意味で止まっているのか。

前の単元があいまいなのか。

それとも、失敗が続いて「どうせ無理だ」と身構えているのか。

そこを見ないまま、ただ説明を増やしても、生徒の中には入っていきません。

知っている側にとって当たり前のことほど、知らない側には見えにくい。

だからこそ、教える側は、一度立ち止まって、生徒の目線まで戻る必要があります。

勉強がわかるようになるとは、ただ正解を教わることではありません。

自分がどこでつまずいていたのかが見えるようになることです。

そして、その段差を一つずつ越えていくことです。

知識の呪いを解くとは、知っている人が、知らない人のために、もう一度足場を作り直すことなのだと思います。

勉強が苦手な生徒に必要なのは、「こんなの当たり前だよ」と言われることではありません。

その当たり前にたどり着くまでの道を、一緒に見つけていくことです。

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